不安の種を解決する42

いよいよ人生本気で楽しもうじゃないか。そして、くぅおんは今日も行く

自分探しに疲れて生きる屍にならないために

人生には必ず、自分の奥に潜む闇をすべてあぶり出し、とにかく徹底してそこに向き合うような機会または時期が訪れる。そして必然とその改革に乗り出さなくてはならない。大航海の始まりだ。

その途中で嵐に遭いながらも停泊する港で“哲学のようなもの”と出会う。それは仲間との他愛無いおしゃべりだったり、就寝前の読書の一節だったり。或いは窓の外に見える荒れた波止場かもしれない。そして、なんとなくその“哲学のようなもの”にひっかかりを覚えながら再び航海へ出る。

そうしたことを繰り返し無我夢中でやってきてふと、例えばこの一年を振り返った時、自身の体質、生活リズム、取り巻く環境、人間模様とその顔ぶれにハッとする。これにより付随して自ずと成された意識の改革、いや霊性といっても過言はないはずだ。

今この瞬間、すべてのピースが揃い在るべき人々が在り、集い、行うべきことがスムーズに進み、自身の本質と対面することが出来た。

これが私だ

その偉大なる真実と遭遇した瞬間、これまで自身が作り上げてきた仮想空間は崩壊する。この感覚とはけしかけて起こるようなものではない。

まるで深い眠りや夢から瞬時に目覚めるのように突然やってくる。そして同時に

一体私は何をしていたんだ?

という心地良い焦りも沸き起こる。うかうかしていられないというような弾む心を感じる。そうでないならそれは単純に思い込みに他ならない。

 

霊性向上の落とし穴『高みの見物』

迂闊に動き出してはならない。まずは弾む心を抑えよう。

というのは、この瞬間というのが最もエゴが露呈しやすい。こういうときの心というのは風船のように空に浮かんでいきたい。地に足のつかない状態からの高みの見物。上から物事が見渡せるのは事実だから、どうしても上から目線の物言いになる。それは諭しのつもりでも相手によっては批判になり、どう受け取られてもあなた自身に責任はないが、これにより炙りだされた闇が物質化してしまう。これを目の当たりにしたとき(高みにいる間は嫌でも見える)あなたは不安から益々高みに上がろうとする。

その先は・・・言わずともわかるはずだ。
まずは弾む心を抑える。地上にしっかりつなぎ留めておく。掴んで離さない。

そうするといつしか現実(理性)と馴染み、風船のように膨らんでいた心はしぼんでいき、その後にポッと温かい何かが胸を中心に身体へ染み渡る。この感覚を得た瞬間、あなたの意識(こころ)は言葉にする前に既に行動となっている。そしてこの行動を改めて見なおした時に思考し気づきとなる。その瞬間にまた既に次の行動は生まれる。

これが意図せず成されていくのが『覚り』という、文字通り自分自身を思い出すことに繋がる。だから他者を“諭して”いる間というのは自ずと存在し得ない。あなたのその姿勢に賛同し自らも発動する者がいるかもしれないというだけだ。

 

2017年、このブログのテーマは『羅針盤』でありたい

私の得意とすることをなんとか絞り出してみるといい意味でのなまぐさ。

死の床にあって人生を振り返ってみると「自分の人生大したことなかったなぁ」と穏やかに世を去りたいという死生観がある。本当は言うのも憚れるほど中々激動の人生ではあったけども、今この年齢になって思えばそれすらも大したことないように思える。何をそんなに大騒ぎしていたのだろう、と。

それだけ無我夢中で生きてきた。その人生を誰かに褒めてもらおうとか慰めてもらおうと反抗期には多少あったけども、私が荒んで人生の瞬間を無駄にしていたような年頃を、我が子らがその頃の私と同じ年齢を迎え活力に満ち元気よく通り過ぎていったのをみて、これでいいんだと肩の荷が降りた。

この先は我が子を含め若者らの悩みが連鎖して私の悩みになることはあるだろうが、ここで自分が苦しみたくないために説教を落としこむようなことは止め(それは社会の誰かがやってくれるだろうから)、とにかく行動し道筋を照らす灯りや方向性を示す羅針盤であれることを願う。

波乱というのは巻き込まれたように見えても自分から飛び込んでいたり、気がついていないだけで自分が火種だったりする。いずれにしても自分がその渦中にいると実感した瞬間から自身で収拾をつけなければならない。気づけたのは大人である証でもあるから。

なんとかその渦中から抜けだして振り返った時に「やれやれ」と一息ついてふっと笑みが溢れるくらいがちょうどいい。またしても火の中に飛び込んで行かなければならないとき「よっしゃ!」という気合になる。

その手本になれるのは、わちゃわちゃと手探りでここまで生きてきて、おおよそここからはぶらりぶらりと過ごしていく私のようななまぐさめが適任かと思う。

しかし、単になまぐさではいけない。真面目に見えないというだけであって基本は一生懸命取り組んでいなければならない。がむしゃらに生きてきたからこそのなまぐさだ。

社会規範、道徳というものは様々な場面で徹底して求められる。これは当然のことだから社会の構成員としては秩序を持って遂行するべし。

実のところ、この基本が出来ていないといい意味でのなまぐさがは成立しない。社会がそれをよしとしないからだ。あなたは単に怠け者の烙印を押される。そうなればたちまち自由ではなくなるし、何かに囚われた人生をゆくことになる。解放された自由な心というのは、秩序を保とうと努力してこそ得られるものだから。

何よりもそんな自分自身を赦せなくなるのはあなただ。すると私のように途方もない旅に出て森に迷い、危うく屍になりそこねるなんてことに成りかねない。

気をつけたいものだ。

 

合掌